楽焼のはなし(外伝)
安土桃山時代、織田信長(以後、信長と記す)が愛好し、
武士達の間に広まった茶の湯は恐らく、信長の人心掌握に大いに利用された。
と云うのも、当時、武功を上げた武士には領土を与えていたが、
領土には限りがあり、余りにも与え過ぎると、力を増す。
それを警戒した信長は、名のある茶器を与えたのだ。
その為には、領土に代わり得る程の価値あるものでなくてはならない。
そこで茶の湯の地位を向上させ、有難いものであると云う演出をしたのだろう。
それは見事に成功し、茶の湯は急速に武士達の間に広まっていく。
(当然、信長の策略ばかりではなく、
茶の湯本来の良さがあってこそだとは思うが……)
余談になるが信長はしばしば似たような手法を用いて、
時代を動かせてみせている。
恐らくは信じてもいない(あくまでも主観です)天主教(キリスト教)を奨励し、
ルイス・フロイスを取り込んだ。
これには、火薬を入手するのが目的だったと云う説がある。
信長は著名な茶器の多くを所有していた為、
それらは本能寺の変で焼失してしまう。
色々な意味に於いて、実に残念な出来事である。
信長、秀吉と天下人二人に仕えた利休もまた、なかなかの兵(つわもの)である。
茶の湯は、元々、禅僧達が中国から持ち帰った喫茶であるが、
それを芸術の域にまで昇華せしめた利休は、やはり偉大であった。
利休以前にも茶道はあった。
村田珠光や利休の師・武野紹鴎等の先達があればこそだが、
侘(わ)び寂(さ)びの趣(おもむき)を定着させ、
それを見事なまでに形にして見せた功績は大きい。
楽茶碗は云うに及ばず、日本建築にも大きな影響を与えた茶室の完成等、
利休の美意識は以降の日本を語る上で避けては通れない。
信長、秀吉も茶の湯を利用したが、利休もその天下人を利用し、
自身の出世と茶の湯の大成、地位向上に成功したのだ。
秀吉に切腹を命じられ、命乞いすれば助かったであろうと思われるが、
利休はしなかった。
利休七哲と云われる高弟の中で、
細川三斎や古田織部等が奔走し助命を嘆願したがそれも叶わなかった。
当代随一の文化人が切腹すると云うこの信じ難い事件は、
やはり時代の為せる業であろうか。
楽の話にしては、少し飛躍し過ぎたかも知れないが、
美術書や美術館で黒楽茶碗を観る度に、
私は利休を偲ばずには居られないのである。