草花の話
草花とは、主に観賞用に育てられた草や花や木の事で、
野生の、人の手の入っていない植物は、山野草と呼んだ。
こんな言葉の使い分けが存在する程、日本人は植物を愛してきた。
品の良い深い群青の釉がかかった鉢植えの、
丹精込められた一輪の黄色い大菊は、実に美しいものだ。
盆栽も見事で、松、梅、桜、楓等、
本来は大きな木であるそれらを小さな鉢の中に写して凝縮させた小宇宙である。
それら人工的自然美に対して、野趣のある山野草もよく、
まさに人の成しえない自然界の絶対的美がある。
四季毎に移ろう景観を愛でる心をずっと持っていたいものである。
草花で美と云えば、
「立てば芍薬(シャクヤク)、坐れば牡丹(ボタン)、歩く姿は百合(ユリ)の花」
なんて言葉を思い出す。
これは見目麗しい女性を言った慣用句であろうが、
昨今、こんな女性は先ずお目にかかれない。
如何にも日本的な色白の和装美人を連想するが、既に絶滅危惧種であろう。
髪を茶色く染め、肌は小麦色で、矢鱈と露出の多い女性の如何に多い事か……。
しかし、それはそれで、これがまたある種の趣があるにはある。
(嫌いではないんだなぁ)
「いずれが菖蒲(アヤメ)か杜若(カキツバタ)」と言ったところであろう。
(いやぁ、実に上手いこと言えたなあ)
この慣用句は、どちらも素晴らしく甲乙付け難いと云う意味であるが、
一方、どちらも似ていて判別出来ずに紛らわしいと云う意味もある。
確かに、菖蒲(アヤメ)も杜若(カキツバタ)も似ていて判然としない。
どちらも美しい花で、形もよく似ており、色も紫のものは区別が付かない。
また、「菖蒲」を「アヤメ」と読んだり「ショウブ」と読んだりと、
益々ややこしい話になるのだ。
花菖蒲(ハナショウブ)と云うのもあるが、
これもアヤメやカキツバタとは違う植物である。
ちなみに端午の節句に入る菖蒲湯の菖蒲(ショウブ)は、
サトイモ科の植物で、可憐な花を咲かせないまったく別物である。
アヤメと云えば(っと、連想ゲームみたいになっているが)、花札が浮かぶ。
花札は日本の四季を巧みに取り入れて上手く纏め上げられた遊具である。
一月は松、二月は梅、三月は桜、四月が藤、五月が菖蒲で、六月に牡丹、
七月は萩、八月は芒(ススキ)、九月は菊、十月は紅葉(モミジ)、
十一月は柳で、十二月が桐と十二箇月の花々が散りばめられていて、
そのそれぞれの札自体に描かれたデザインは洗練されていて、
トランプのようなシンプルさとは真逆の美しさだ。
十二箇月にそれぞれ四枚の札があり、12×4=48枚で構成される。
各札には点数が割り振られ、20点、10点、5点、1点と4種類ある。
十月の紅葉の10点札には、もみじと鹿が描かれているが、
その鹿がそっぽを向いているところから、
無視する事、知らんぷりをする事を意味する「しかと」と云う言葉の語源になった。
近頃は、正月に家族で花札を楽しむなんてないのだろうか。
なかなか、面白いものである。
最後に少し草花の真面目な話を……。
京都の龍安寺には、侘助(わびすけ)と云う名の椿(ツバキ)がある。
龍安寺の石庭はあまりにも有名で、枯山水の傑作だろう。
その庭を左手に見ながら廊下を進み、右に曲がると、
これまた有名な「吾唯足知」(われ、ただ、たるをしる)の蹲(つくばい)があり
(但し、そこにある一般公開しているものは複製で、本物ではない)、
その横にひっそりと侘助椿(わびすけつばき)がある。
そのネーミング(椿の品種の名前である)も好きなのだが、
少し薄暗い寂れたその場の雰囲気と、侘助の佇(たたず)まいがたまらなく好い。
龍安寺はとても人気のあるお寺で、
観光スポットにもなっているので、土日ともなれば観光客で賑わい、
残念ながら、ゆっくりと風情を味わうような雰囲気ではない。
私は学生の頃、ひとりで平日の雨の日を選んでよく行った。
(勿論、学校は休んでだが……)
雨に泥む(なずむ)古刹のしっとりとした佇まい。
冬の古都の身を切る張詰めた空気。
文庫本を片手に、石庭や侘助を眺めながら、贅沢な時を過ごしたものだ。
侘助椿は、寒さ厳しい二月から三月が見頃である。