絵画のはなし(浮世絵篇)

浮世絵とは、
今日では主に多色多版刷りの江戸期の版画を思い浮かべるが、肉筆画の傑作もある。
切手収集を一度でも経験された方なら、
菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)の「見返り美人」は、ご存知だろう。
この作品は、肉筆画である。
肉筆画はその性質上、二つと同じものはなく、版画とは大きく違う処である。

版画の浮世絵は分業制で、
絵師が下絵を描き、彫師が板を彫り、摺師がその板に色を置き、紙に転写するのだ。

円熟期になると、絵師の作品をよりよく表現しようと、
多くの色を使用するようになり、それによって板が増え、多色多版になった。
現在、絵師の名前しか残っていないが、
浮世絵版画を支えた名も無き職人達の技の結晶である。
優れた彫師になると、1ミリの中に3本の線を彫る「毛割り」と云う究極の技法を使用した。
主に女性の髪の毛を細密に表現する技法である。
1ミリの中に3本の線を描くのも大変なのに、
それを木の板に彫ると云うのだから、神業である。

また、摺師も凄い。
多色多版になると何度も同じ紙に色と板を換えて摺らねばならないが、
色を正確な位置に摺れるのだ。
版画をやった事のある方ならおわかりだと思うが、
一度板から外したものを再度きっちりと合わせて摺ると云うのは、至難の業である。

浮世絵を語る上で、絵師、彫師、摺師ともう二つ、
ふれなければならない項目がある。

一つは、版元である。
現在で云う出版社みたいなもので、
お抱えの絵師や彫師、摺師を持ち、企画を考えて作品を作らせ、店先で販売した。
蔦谷重三郎(つたや じゅうざぶろう)は有名であろう。
某レンタルビデオ店が、その名前にあやかって使用している。

そして、ふれなければならない項目のもう一つは、春画(しゅんが)である。
春画とは、枕絵(まくらえ)とも呼ばれる浮世絵の一つのジャンルで、
性風俗を題材にしたものである。
初期浮世絵の肉筆の春画は、1点物である為、非常に高価で、
名家のお嬢様の嫁入り道具の一つとされた時代もあったそうだ。

春画の需要は多かったらしく、浮世絵全盛の江戸中期の版画時代では、
肉筆画程高価ではなくなった為と、好色本等と上手く結びつき、より隆盛を極めた。
名立たる絵師達が手掛け、極彩色の超豪華版で、
普通の浮世絵では考えられない設え(しつらえ)の作品群である。

内容が内容だけに、当時でも発禁になる事があったらしく、
表立って発売せず秘密裏に売買されていた為に、
幕府の取締りを気にせずに、贅を凝らし、思うが侭に作れたのだろう。
絵師もさること乍、彫師、摺師の技巧も超一級品で、
当代最高の技術の集大成である。
近年、その芸術性の高さから、益々評価は上がる一方である。

少し駆け足になるが、好きな絵師紹介をしておこう。

歌川広重(うたがわ ひろしげ)
ゴッホの紹介部分にも出て来たが「名所江戸百景」や、
「東海道五十三次」等で有名な絵師である。
先の菱川師宣「見返り美人」との切手繋がりで云えば、
「月に雁」も高価な切手であるが、原画は広重作である。
よく安藤広重(あんどう ひろしげ)と呼ばれるが、安藤と云う苗字は生家の本名で、
絵師として呼ぶ場合は歌川広重である。

葛飾北斎(かつしか ほくさい)
今更私がここに名を取り上げるまでもない日本絵画史上の天才の筆頭であり、
知らぬ人は恐らくいないであろう。
「富嶽三十六景」は代表作で、
特に「凱風快晴」は、「赤富士」の名で親しまれている。

私は小学生の頃、富士山に登った経験があるのだが、
富士の土の色が北斎の「赤富士」と同じだったので、
凄く感動したのを今でも覚えている。

「百物語」や「北斎漫画」も有名で、どれを代表作と言ってもおかしくない出来栄えだ。
画号を次々にかえた事でも有名で、
「画狂老人」や「卍(まんじ)」等、洒落っ気もあり楽しい。

北斎紹介の最後に好きなエピソードを一つ。
北斎は90歳と云う長寿でこの世を去ったが、
臨終の際、「後、5年生きれたなら、本物の画工になれたのに」と言ったそうだ。

もう十分本物の画工であったと思うのだが、
それでもまだ絵に対する探究心を忘れなかった謙虚さと執念に脱帽である。
私もこう在りたいものである。

東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)
北斎に並び有名な浮世絵師である。
特に初期の「大首絵」は、誰もが目にしている作品であろう。
「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛」、「市川蝦蔵の竹村定之進」は、
強烈なインパクトで目に焼きついている。

謎の絵師と呼ばれる写楽は、10ヶ月間活躍したのみで、忽然と姿を消した。
しかもその内の第1期と呼ばれる短い期間に発表した「大首絵」28枚が、
傑作とされている。

「大首絵」はどれも歌舞伎の役者絵で、本来なら実物よりも美麗に描くべき作品だ。
それを写楽は、役者の特徴を忠実に、または少し誇張して、時には醜悪に描いた。
役者からの評判はあまり良くなく、
ブロマイドとしての売れ行きも芳しくなかったようである。

無名の新人絵師に雲母摺り(きらずり)の大判を、
しかも誰も喜ばない作品を作らせた蔦谷重三郎の思惑は、どこにあったのか。
その為「写楽別人説」が昔から取沙汰されている。

蔦谷が無名の新人絵師に、豪華な設えの大判を許可するはずがない。
そこまでするのは、
有名なお抱えの人気絵師や戯作者が変名で作品を発表したからだと云うのである。
絵師では、北斎や喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)、
戯作者の十返舎一九(じゅっぺんしゃ いっく)等が候補に挙がっている。

非常に興味深い謎である。
写楽は誰なのか? どこに消えたのか? 真相は闇の中だ……。

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